能の花 狂言の花

一観客として、能楽の面白さの一端を伝えられれば、と思っています。 初めてご来訪の方は「はじめに・・・能狂言に寄せて」のカテゴリーをご一読下さい。これまで書いた鑑賞記の索引を載せています。

花月を廻ってなおつづき

花月を廻って、様々なことを書いていますが、花月を特徴付ける大きなところ「芸尽くし」では、弓ノ段に関連しての話を書きました。
舞台の方は、弓ノ段の後に曲舞があり、親子の再会の後には鞨鼓、そして山廻りと続いていきます。そこで、曲舞、鞨鼓、山廻りについて、少しずつ気になることなどを書き記しておこうと思います。

まず曲舞ですが、二つほど。
一つは「甲グリ」の話です。「カングリ」と読みますが、このブログでは「能狂言のあれこれ」の「ツヨ吟とヨワ吟」の項目で簡単に触れています。
ですが、より詳しく分かりやすい説明が、時々引用させていただく「謡曲の統計学」のサイトにありますので、ぜひ参照されると良いと思います。統計学をまとめられた大角征矢さんが、「能・謡 ひとくちメモ」として書かれたものから36話ほど掲載されていて、この一話で「ツヨ吟の甲グリ」に触れています。

しかし私、どうもこの甲グリが音楽的にはあまりしっくりしないように思えて仕方ないのです。だからこそ何か特別に強調したい部分に用いられているのかも知れないなあ、などと考えています。

そこでこの花月ですが、「楊柳観音」のところに使われています。
クセは清水寺の草創について触れ、大同二年の春、坂上田村麻呂が清水寺を創建したと始まります。これは能「田村」の詞章と同じですが、さらにあるとき、清水の音羽の瀧が五色に見えたので水上を尋ねると「こんじゆせんの岩の洞」に青柳の朽木があり、その木から光が差して異香が四方に薫じていた。これは疑いもなく…「楊柳観音の御所変にてましますか」と続く部分です。

この清水寺創建をめぐる部分が二つ目の話です。
清水寺の本尊はご存知の通り千手観音でして、どうして楊柳観音が出てくるのかが分かりません。謡は「朽木の柳は緑をなし 桜にあらぬ老木まで皆白妙に花咲きけり さてこそ千手の誓には」とあって、千手観音も出てきますが、どういう伝承をもとにこの謡が書かれたのか、探した限りでは解説したものがありませんでした。

さらに「大同二年」です。
清水寺の寺伝では、寺の開創は宝亀九年(778年)とされ、行叡居士から霊木を託された賢心が音羽山の草庵と観音霊地を守ったとされています。後に坂上田村麻呂が寺院を建立したとされますが、それは延暦十七年(798年)と伝えられています。
大同二年は807年で十年近い開きがあります。坂上田村麻呂が亡くなったのは弘仁二年(811年)ですから、807年でも変ではありませんが、寺伝と明らかに異なった時期になっているのは妙です。
ところでこの大同二年ですが、実は東北から、私の住む茨城まで、この年を創建・中興とする寺社が多々見られます。またその創建などには空海や坂上田村麻呂の名前が必ずといって良いほど出てきます。どうも何か大きな歴史的事件が背景にありそうな気がするのですが、現状、これ以上のことは分かりません。おいおい色々と調べてみようかと思っています。
「こんじゆせん」というのもなんだか分からないのですが、こちらも将来の課題です。
というわけで、鞨鼓などの話は、また明日に
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花月を廻ってまたまたのつづき

花月という能については、昨日ふれたように男色的要素が見られることと、遊狂物といわれるに相応しい芸尽くしと、二つの面から特徴的な能とされています。
生き別れになっていた父子の再会という筋書きはありますが、これはさほど重要視されておらず、場面設定のための背景といった位置づけに感じられるところです。

さてこの芸尽くし、冒頭に「花月」の名の由来を数え上げる場面を含め、男色的要素を感じさせる小歌、弓ノ段、曲舞、鞨鼓、山廻りと、比較的短い一曲の中に、これでもかと詰め込まれています。そんななかで弓ノ段に関連して興味深い論文を見つけました。
法政大学国文学会の会誌「日本文學誌要」73号に掲載された伊海孝充さんの…<花月>の「春の遊び」…と題した一文ですが、伊海さんは大阪大学名誉教授の天野文雄さん(以前鑑賞記の中で、藤戸に関する天野さんの説について書いたことがあります)が「禅寺の喝食である花月がなぜ弓矢をもっているのだろうか」と疑問視されたとをとりあげ、この問題提起は重要であるとして、論考されています。

伊海さんはここで「小弓」という遊戯のことを持ち出されています。「小弓」は平安時代から貴族や子供に賞玩されてきた遊戯だそうで、念のため古事類苑を見てみましたが小弓に関しては応和(961~964)、承暦(1077~1080)、長治(1104~1105)年間などの記事があります。もともと宮中で小型の弓をもって的を狙って得点を競う遊び、小弓合ないし小弓会から広まったようですが、雀を的代わりにする「雀小弓」なども、子供の遊びとして人気があった様子です。

花月が鶯を狙うという場面、観客は雀小弓を連想しただろうというわけです。その小弓は蹴鞠とともに「春の遊び」と認識されていた様子で、伊海さんは鞠小弓が春とともに詠み込まれた歌などを引き、小弓と「春」の季節感の関係性を強調しています。
そして花の咲き満ちる清水寺で喝食の少年「花月」が行うのに最も相応しい芸能として「小弓」が使われたのだと結論づけています。花月が登場した場面でのアイとシテの問答にも「今まで雲居寺に候ひしが 花に心を引く弓の 春の遊びの友達と 中違はじと参りたり」とある部分、弓の「張る」と春を関係づけているのもその流れであるということです。

先にふれた天野さんの説は、放下僧の例を引きながら、禅的要素に起因して花月に弓矢を持たせたのだという結論ですが、なんとなく伊海さんの説の方が「春の清水寺」を舞台とする能、しかも遊狂物に相応しいように思えました。

長々と書いていますが、明日・明後日は出張ですので戻ってきて落ち着いたら、花月の芸尽くしをめぐってもう少しだけ書いてみようと思います
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花月を廻ってまたつづき

自然居士を絵巻に見られる姿と大きく異なった形で能に登場させたのは、やはり観阿弥の独創ということなのでしょう。
世阿弥もこの能にはかなり手を入れている様子なので、観阿弥が演じた自然居士が現在と同様の喝食姿だったのかどうか、いささか疑問も残ります。しかし風姿花伝に「自然居士の物まねに、高座の上にての振舞を、時の人、『十六七の人体に見えし』なんど、沙汰ありしなり」とあって、世阿弥は四十を過ぎた観阿弥の演じた自然居士が十六七に見えたと書き記していますので、詳細は別としても観阿弥が自然居士を若い男として演じたことは間違いなさそうです。

自然居士を廻っては、上の引用にある「高座の上にての振舞」が、世阿弥によって省略された場面で、五音にその詞章と思われる部分が残っていることなど、まだまだ触れておきたいこともあります。しかしそのあたりを書いていると、いつまでも「花月」に到達できそうにないので、観阿弥が自然居士を若い男に仕立て直したというところを確認して、花月の方に話を移し、自然居士を廻ってのあれこれは、またいつか機会のあるときに触れてみたいと思います。

さて、花月などで用いられる喝食の面へ話を進めようと思います。
喝食はもともとは禅寺で食事の種別や進行を唱えて衆僧に知らせること、またその役名を言い、喝食行者とも言います。もともとは年齢には関係なかったらしいのですが、後々、日本の禅林では7、8歳から12、13歳の小童が勤めるのが一般の風習となり、室町時代には稚児の別名となって、本来の職責とは異なり、公家や禅僧の若道の相手役となったと言われます。(日本大百科全書をもとに記載)

喝食面は、この喝食を模したものですが、室町期に成立してきたわけで、当然に男色も想起させるものだったのでしょう。遊狂物のシテが喝食をかけることにより、若い男というだけでなく、色気ある男の物まねによって観客を惹きつける趣向もあったのだろうと想像します。
そして花月ではアイとの絡みなど、さらにこうした面が強調されているようです。
さてこのつづきはまた明日に
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